臨書の世界

古今寄りの名書を臨書する 

続昆明記21 麗江

麗江・古城


さあ、麗江へ着いた。
久し振りの麗江は小雨がぱらついている、まず、古城を一回りする。
まだ5月なのにもう梅雨に入ったのだ。
サクラヤも二倍の大きさに広がった。
若い主人に話し掛ける、
「大分大きくなりましたね」
「ハイ、皆さんのお陰です」
相変わらず腰が低い。
韓国人の奥さんも相変わらずいそいそと飛び回っている。
最初来た時、異国人同士の結婚問題で悩んでいたが、解消したようだ。

立ち並ぶ西洋風の店もその数を増して、
ちぐはぐだった飾り付けも地に付いて来た。

 

 



何時もの調子で写真を撮っていたら、女の子が声を掛けてきた。
よくよく聞いてみると、なんと、写真代「2元」の要求なのだ。

小川のせせらぎは相変わらずの清清しさだ。

  



石畳の黒光りも変わりようが無い。

 

坂の上の方まで露店が並び出した。



山頂からの変化に富んだ麗江の町並みは健在だ。

 

一回りして、邵の店に顔を出す。
邵と何(いずれも友人名)はパソコンゲームに興じている。
二人で旅行社を構えたらしいが、折からの梅雨で客も疎らだ。
「どう、景気は?」
「ゴールデンウイークは大変だったけど、このところ雨ばっかりで、
商売上がったりよ」
彼等は散客と言って、団体客以外のフリー客が相手なので、
天候が商売上の大きな要因となる。
団体客の場合は、天候に関係なく決まったコースをたどるが、
散客の場合、麗江に来てもフリーだから、
天候を見極めながらコースを決めるのが普通だ。
それにしても、ただただ、客を待っている、
これでは業績も芳しくないだろう。

夕方、顔馴染みが集まって来た。
どの顔も元気そうだ。
去年、失恋した模様を淡々と手紙で書いて寄越したジェンウェイも、
溌剌と入ってきた。 失恋の痛手はとうになえたらしい。

昔の話になる、
「彼女は結婚してよその街へ移った」
「彼は別の会社に移った」
「彼女は、今、お腹がこんなだよ」
とジェンウェイが大袈裟な身振りをする。

 

 



知った顔がどんどん減って来た。
あの、広末涼子の面影の有った春麗は恋人の後を追って麗江を離れたとか、
余り幸せでは無い様子だ。
当時16歳、もう20歳だもの、4年の歳月は短いようで長い。
その間に、邵は結婚して、今日はお揃いで顔を見せている。
鄭は自分で旅行会社を始めたらしい。


ジェンウェイが、
「濾沽湖へ行こうヨ、私が案内するから」
彼女は濾沽湖出身、母親が例のモソ人だ。
モソ人の間には、今尚、古代からの母系社会が継続している。
濾沽湖が目に浮かぶ、
しかし、バスで11時間の悪路を考えると怖気がつく。
「道が良くなって、6時間半で行けるようになったのよ」
そう言えば、前回行った時、あちこち工事中で立ち往生したものだ。
あの道が完成したのだろう。
「今回は余り時間もないし止めておくよ」
「じゃー、(牛偏に毛)牛坪へ行こうか、前に行った雲杉坪よりずっといいよ」
(牛偏に毛)牛坪は、日本語で言うとヤク平、野生のヤクの生息地だそうだ。
「海抜4000mを越す高原からの玉龍雪山の眺めは素晴らしいよ、
でも、この天気では保証出来ないけどね」
「じゃー明日行こうか」
「うーん、明日は仕事が入ってるのよ、明後日どう」
「OK」

お金を支払おうとすると、邵が私の手を押さえた。
「今夜はあんたの歓迎会!」
「でも...」
「いいから、いいから」
「よし、じゃー明日の晩は俺がご馳走するよ。麗江で一番美味しいところを予約しておいて」
私を除いた彼等で割り勘のようだ。
全く、気持のよい連中だ。

皆と別れて、もう一度古城を一回りする。
広場では民族踊り、みんな、小母さん達だ、何処でも小母さんは元気がいい。

 



若い二人が灯篭を流している、何を願っているのだろうか。
サクラヤは今夜も客で一杯だ。



客の多い店、少ない店もはっきりして来た。

続昆明記20 石鼓 長江第一湾

石鼓 長江第一湾

バスは剣川から石鼓へ向っている。
石鼓は古来からチベットとの貿易拠点、
長江(揚子江)が西北から東北へV字型に急カーブして
長江では珍しい浅瀬になっているところが長江第一湾と呼ばれる。

古来からの揚子江を南北に渡江するのに最も適した所として知られている。、
過去に、孔明フビライ、の雲南攻め、朱徳の長征、
と中国史に残る大掛かりな渡江が三度有ったところだ。

バスの中で納得した。
何故、孔明フビライ雲南攻めにこの道筋を選んだかだ。
大理から石鼓までそれ程険しい山越えは無い、殆どが農地で繋がっている。
ほど良く村落も有る。
孔明フビライが容易に食料や人扶を調達できた事が覗える。

ズームアップするように長江が大きくなり、石鼓が正面に見えて来た。



遠くから見え隠れしていた街の入れ口でバスが止り何人かの乗客が乗り降りする。
次が街の中心かなと降りる準備をする。
が、街の中心が現れない。
あれよあれよと言う間にバスは街を遠ざかる。
さっきの停留所が石鼓だったのかな、と暫く躊躇していたが、
運ちゃんに声を掛ける。

急停車したバスから降りると、石鼓の街は向うの山陰、4、5キロは有るだろう。
真新しい舗装道路から情け容赦なく雲南の陽光が照り返す。
前を見ても、後を見ても車が来そうな気配も無い。

 

トボトボと歩き出すと道の傍らに農耕機、
農家に飛び込んで交渉する、値段を倍にしたら小父さんが立ち上がった。
僅か10分が、剣川から石鼓まで3時間のバス代と同じ額だ。
案内書の「石鼓は比較的大きな街....」を信じ過ぎた。

石鼓の由来となった太鼓型の石碑、明代の建立だ。

 

4本柱の立派な櫓の中にデンと辺りを払っている。
櫓の傍らに古道、



 

小道に辿って行くと吊橋に出る。

 

昔はこの吊橋が生活道路だったのだろう。

江の川岸に出る。
目前に見る長江第一湾は、
ポスターの写真などで見るV字型の豪快な景観とは程遠い。
余りにも近景なのV字型は想像するしか無いのだ。

 

向こう岸まで数百mは有るだろうか、ゆったり流れる長江、
ここから少し下流に、高低差が3000mの大峡谷、虎跳峡を控えているのが嘘の様だ。
虎跳峡でこの長江の川幅が一気に30mほどに縮まり激流と化す。

長江はその先、重慶、山峡、武漢を経て上海まで中国を横断し、
更に更に、2000kmも流れ続けるのだ。

つづく

  

  

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続昆明記19 剣川・寶相寺、剣川の民家

剣川・寶相寺、剣川の民家

石鐘寺から山道をくねくねと6km程のところで車が止る。
左側の山頂が寶相寺だと言う、見上げただけでゾッとする高さだ。
入り口に屯していた屈強な男達が寄って来た。
所謂、駕篭かきだ。
言い値の半分に値切って籠に乗る。



流石の男達も急勾配の石段に息を弾ませる、途中で小休止だ。

聳え立った岸壁に食い込むように寺院がへばりついている。

  

 



幾つかの寺房の間を迷路のような桟道で連なっている。
創建は北宋時代だが、現存するのは清時代に再建されたものだそうだ。

泥人形の様な仏像、と見たが、現在製作中の仏像だ。
暫く、仏像製作の現場を見学する。

 

ここの仏像、狛犬も一味違う。
それ程古い物ではなく、それ程新しい物では無い様だが、

 



黒光りする艶が、今尚、現代の人々にも崇められている様を示している。

帰りがけに一悶着有った。
寶相寺からの帰り道、運ちゃんが、
「??寺へも行くのか?」
「そうだ」
「かなり寄り道になるので別料金になる、あと20元だ」」
話が違う。

??寺も含めるのは、宿を出る前に、受付けの女性と交渉済の筈だ。
これこれこういう訳だ、と説明しても頑として、
「聞いてない」
を貫く。
??寺の菩薩像に一目会いたかったが面倒になって山を降りる。

宿へ着いたが、どうも、腹の虫が収まらない。
受付の女性に、
「約束の??寺に行ってくれなかったので」
と20元引いた料金を支払おうとした。
運ちゃんが怒り出した。
「私はこの女性と契約したのだからこの女性に支払う」
性格の良さそうな女性がしきりに運ちゃんに説明する。
人だかりが出来た、その中の口の達者な女が言う。
「あそこまで行って??寺まで行くのなら、200元プラス20元は妥当だ、安いくらいだヨ」
当然ながら、人だかりは、皆、運ちゃんの顔見知りだ。
私も意地になって頑張る。
「そうかも知れないが、約束は約束だ」
たったの20元の話だが、あの菩薩像に会えなかった口惜しさが募る。
「ホテルのマネージャーを呼んでくれ」
「マネージャーは関係ない、受付の女性も関係ない、あんたと俺の問題だ」
運ちゃんも後に引けなくなったらしい。

どうも、受付の女性が運ちゃんへ充分な説明をしてなかったらしい。
受付の女性は困惑したように下を向き出した。
私はホテルと契約すしたつもりだったが、
受付の女性が親切に、直に、運ちゃんを紹介してくれたらしい。

年配の女性が運ちゃんに説得したようだ。
私の方を向いて言う、
「180元で良いそうだよ」
受付の女性に200元渡すと20元お釣を寄越した。
その20元を運ちゃんに手渡とすると、今度は運ちゃんが受け取らない。
私が何とか運ちゃんのポケットに捻じ込もうとすると、
運ちゃんは身をよじって逃げ回る。
みんなが笑い出した。
運ちゃんも白い歯を出して逃げ回る。
結局、受け取って貰えなかった。
しかし、気分が晴れた。


夕方、剣川の街を散歩する。
未だ、観光化されていない街には普段の白族の生活がある。

 



大きな荷を背負った女性達が黙々と歩む。



石造りの塀が続く、どの家にも石の門がある。



 

その一つの中を覗いてみると、少年がニコリとした。
「君は白族?」
と尋ねると大きく頷く。

小さな街だ、少し歩くと田園風景が盆地一杯に広がる。

続々昆明記17 剣川・石鐘山石窟

剣川・石鐘山石窟

次の目的地は大理北方200kmほどの剣川、その先100km行くと麗江だ。。
剣川行きのバスは昨日豪華船を降りた下関から出る、30分ほど南へ戻らなければならない。
いずれにしても大理古城は通り道、何とかなるだろうと幹道へ出る。
何台か目にやって来た剣川の看板を付けたミニバスに乗り込む。
昨日、喜州へ行った同じ旧道をひた走る。
道が少し湖側に傾いているのが当たり前のようにぶっ飛ばす。
4年前の事故を思い出し身震いするが、まあ、なんとかなるだろう。

やがて、右側に現れた真新しい新道と平行になり、道が一つになった。
と思ったのも束の間、100mもしてミニバスは左に折れ再び旧道を走り出した。
氷面のような新道を滑らかに剣川までの期待を裏切り、終に、剣川まで旧道を走り続ける。
まあ、幾つかの村落で客を乗せ下ろししながらの田舎のバスもそれなりの風情がある。
予定の3時間を2時間オーバーして剣川の町に入る。
名前のイメージから山峡の街を予想したが、結構な広がりのある盆地だ。

直ぐ食堂に入り宿探し、ここのビールも生暖かい。
食堂のお姉さんご紹介のホテル、交渉しても予算の100元以内を上回る。
急ぐ事はない、バイタクで着いた二軒目、バスタブもあり80元に満足。

小さなホテルだが、一応、写真付きの観光案内図が掲げてある。
剣川の狙いは、石鐘山石窟、
此処は、南詔国、大理国時代の白族の石窟としてその筋では知られている。
もう一つは、岩窟にへばり付くように建てられた宝相寺。
案内書にはバスの便が記されているが、受付の女性に尋ねると、
何回かバスを乗り継ぎ、時間もはっきりしない。

石鐘山石窟、宝相寺を廻って200元でタクシーを雇う事にする。
ふと、観光案内図を見ると、敦煌莫高窟の57窟?の菩薩像に似た写真がある。
「この写真の菩薩像の絵は何処に有るの?」
「??寺に有ります、石鐘山石窟、宝相寺の近くです」
「この??寺も廻ってくれる?」
「OK」
で話が付くと、受付けの人柄の良さそうな女性が裏口の方へ向い大声を挙げる。
裏庭の向うの方でマージャンをしていた一人の男が手を挙げた。
その男がまあまあの自家用車を裏口に乗り付けた。

盆地から川沿い、更に分山道を登り3,40分して石寶山の立派な山門に着く。



やっと着いたか、割合近いな、と思っているとそれからが大変、案内書には、
「...歩きながらの観光となる」
等と有るが、それを信じて歩いたらエライ事になる。
タクシーはくねくねした山道を登ったり降りたりして、やっと、
やや広まった駐車所の有る石鐘寺の入り口に着く。

少しややこしいが、この辺り一帯の山岳が石寶山と呼ばれ、
古来から白族の霊山信仰の対象になっており、幾つかの寺院が散在している。
その中の一つである石鐘寺が、
谷の向うの崖にへばりついている。



眼下遥かに剣川の盆地が広がる。



そこから、また、2,30分谷を下ると、蛇の鱗状をした奇怪な山肌の景観が現れる。



石寶寺の山門を潜ると大きなぼた餅状の小山、



  

その小山の一角をくり抜いた小さな穴に仏像が頓挫しているが、
その仏像の両脇に付き添う何人かが当時の生活を知る重要な像なのだそうだ、



従者の身に着けている衣装、手に持っている用具がそれを物語っているそうだ。
が、トント、判らない。
言い遅れたが、可愛い女学生のような女性が案内してくれている、しかし、
悲しいかな流暢な中国語だ。

階段を上がると女性は鍵を開ける。

  

客は滅多に来ないのだろう、しかも、たった一人の客だ。
岸壁の凹部に像が並んで居る。
一つ一つ説明をし終わると女性は、
「ここでは写真を撮ってはいけません」
と言って向うへ姿を消した。
「向うへ言ってるからその間に写真をとったら?」
と無言で言ってるのだと善意に解釈して写真を取り捲る。

 



 



 

敦煌、竜門、雲崗石窟に較べると極めて小規模では有るが、
一つ一つの像のキメが細かい。
南詔国王の像と伝えられる像にも素朴さを感じる。

白族の女神と崇められる女仏像の胸元の大きな穴は何だろう?



一番奥まった窟には女性崇拝物、女性性器が厳かに納まっている。



このような形での女性性器像は世界で只一つ、此処だけだそうだ。
背中に子犬を載せた狛犬も珍しい。



裏山に上る。

  

仏像に興味が有るくせに全く仏像の知識がない。
変わった仏像を見る度に、こんどこそ仏像の勉強をしようと思い立って、
もう何年になるのだろう。
ここ雲南ミャンマーに接している、
仏教国ビルマに近い事も何かの影響があるのだろう。

それにしても、この様な人里離れた山奥に.......
信じる事の一途さを感じずにはいられない

続昆明記18

ジ海の豪華?船

波止場には豪華船が待ち受けている、が、切符売り場のような物が見当たらない。
横殴りの雨も益々勢いを増す。
丁度やって来た観光バスから降りた団体客がゾロゾロと船に乗り込む。
何となく団体客にくっ付いて船に乗り込む。
三階建ての豪華船だ。
あれよあれよと言う間に、船が岸を離れた。
此処は、南北に耳の形をした「ジ海」の北の端に近い西岸
大理古城は南の端に近い西岸に有る。
ところが、船は真東を目指している。
何処かへ寄り道するらしい。

いつの間にか雨が止んで「ジ海」の周辺の山々が稜線をあらわし始めた。







やはり船にして良かった、快適だ。
売店でビールを求める。
「冷えたの無いの?」
小母さんが首を横に振る。
おかしなもので、中国生活に慣れてくると、
生ぬるいビールもそれ程違和感が無くなった。
隣に座った男に話掛けてみたが、仲々、通じない。
どうやら広東から来ているらしい、酷い訛りだ。
向うも同じ事を考えているだろう。
気が付くと、乗船客の誰もが胸にバッチ、○○観光、を付けている。
どうやら団体客の貸切船に紛れ込んでしまったらしい。

西岸の何処かへ立ち寄ったら船を乗り換えようと思っていると、
船はその西岸すれすれに近づくと大きくカーブして小島の岸壁に横付けする。
島の奥の方に大きなホテルの屋根が見える、







団体客はガイドに案内されて島一周のコースに向う。
切符売り場のような所がある、
「大理古城へ行きたいのだけど...」
係員は、何言ってんのと言う顔付き、
「大理古城へはその船しか行かないよ」
今乗ってきた船だ。

覚悟を決めて豪華船の船旅を楽しむ事にする。



 

 

ガイドさんが何かお土産のような物を配りだした。
ビールも手伝って私も手を出してみた、ガイドさんはニッコリと、
「あなたは私達のグループではないでしょ」
やはり商売人、自分の客をよく見極めている、などと変な感心をする。

幾つかの観光どころを廻った船は大理古城を目指す、
と思い込んでいたら、遥か古城を右に見て南へ向う。
「ジ海」からの古城の眺めも捨てた物ではない、三塔が霞んでいる。
船は「ジ海」最南端の下関、日本の下関と姉妹都市と聞く、の岸壁へ着岸、
ブラスバンドで民族衣装の娘さん達の見送りを受けて船を下りる。







で、料金を支払おうとしたが、それらしき人も見当たらない。
団体客達の群に押し出される。

続昆明記 17

白族の民族料理「海水煮海魚」

広場を見渡しても目指す「海水煮海魚」を食べさせてくれる様な店は見当たらない。
案内書を引っ張り出す。近くに??亭という名が有る、名前からして「海水煮海魚」
に有りつけそうだ。
バイクタクシーに尋ねると、
「直ぐそこだよ」
再びバイクタクシーを走らす、狭い道を壁すれすれにぶっ飛ばす。
直ぐ其処の筈が結構ある。郊外へ出ると田園地帯、左右は田植え真っ最中だ。
「ここだよ」
大きなレストランを想像していたが、田園の一角のこんもりとした林、
門から察してホテルのようだ。 広い敷地の中、花を愛でながら食堂を探し歩く。



 



だだっ広い食堂では丸い大きなテーブルを囲んだ二組の客、どうも食指が動かない。

門前まで引き返したが、田んぼの真ん中、暫く待ったが、タクシーもバイタクも通らない。
バイタクで風を切って走ってきた道をテクテクと歩き出した。
バイタクなど..と馬鹿にしたが、やはり、文明の利器だ。
半分ほど引返した辺りで、やっと、馬車を捕まえた。

御者の小父さんに、「海水煮海魚」を尋ねると、大きく首を縦に振った。
田園を左右に見てほど良い馬車の揺れ、
街中に入ると両側は年季ものの白族の白壁が続く。
思わぬところで快気分を味合う。





何のことは無い、さっきの広場に戻って来た。
広場からは一寸死角になっている小さな食堂に案内される。
しつこいほど、「海水煮海魚」を確認すると、おばさんは、
「大丈夫、大丈夫」
と言って外へ出て行った。

目の前でバイタクの運ちゃんがのんびりと客を待っている。



ビールを飲んでいると小母さんが小さなバケツを提げて帰って来た。
中では鮒?らしき魚が跳ねている。
「ジ海」は海?の幸の宝庫なのだ。



もう一本ビールを飲んでると、まだゴトゴト煮立っている中皿がテーブルに乗っかる。



鮒と思ったが鮒ではないらしい小骨が少ない。
見掛けによらず、期待した通り私好みの淡白なあっさりした魚料理だ。
一時間は経っただろうか、前の二台のバイタクはまだ動いてない。

帰りは「ジ海」を船で帰ってみよう、と思い立った。
「大理古城へ行く船は喜州から出てますか?」
「ここからは出てない、北へ少し行った所から出てる、俺が馬車で送ってあげる」
今度の「少し」は少しどころではない。
馬車は直ぐに広い舗装道路に出た、大理と麗江を結ぶ観光道路だ。
観光バスが何台も走り抜ける傍らをテクテクと馬車が走る。
ここも田植えの真っ最中だ。



途中で猛烈な雨が降り出した、粗末な布の覆いの間から雨が吹きつける。
旅先での交通機関の選択は慎重を要する。
一時間もして、やっと、波止場に着いた。

続昆明記 16

大里 喜州

喜州は古来からの大理の軍事・経済の要所、白族の古い軒並みが随所に残っている。
もう一つは、白族の民族料理「海水煮海魚」が食べてみたいのだ。

バスを降りたのは普通の民家のど真中、右も左も判らない。
通りかかったバイクタクシー、小母さんの運転だ、メモに、
「三方一照壁」
と書いて渡すと、おばさんは無愛想に頷いた。
姿格好の割には大きなエンジン音を出して、ものの、4,5分して着いたのは、
ちょっとした広場、どうやら、此処が喜州の中心らしい。
近くの露店のおばさんにメモを見せると、
「そこだよ」
と顎をしゃくる。

「三方一照壁」、どんな意味なのか興味が沸く。
民、清時代の貴族?豪族?豪商?の旧居だ。
白族の旧居らしく白が貴重だ。
ただ、中国の古い家屋に見慣れたせいか、オッ、と言うような感動は覚えない。





シーズンオフで客は疎らの上、私がいかにも貧しい中国人に見えたのか、
案内の美人達は座り込んだままお喋りに忙しい。



思い切って尋ねてみた。
「三方一照壁って何ですか、何処に有るのですか」
女性の一人が立ち上がって案内してくれた、
「此処です」
と言って何か説明して、またお喋りに戻った。

一寸した広場を挟んだ三方にこの字型に三階建ての部屋、残る一方が白壁になっている。





白壁の上端と両端に帯状の書画、バックの青が鮮やかだ。
当然、観賞用だろうが、
どんな人たちがどんな気持でこの壁を眺めていたのか興味が沸く。
姿形は変えても竜安寺の石庭を連想する。
二階の欄干から眺めているうちに、何かわびの様なものも感じ始めた。