臨書の世界

古今寄りの名書を臨書する 

続々昆明記17 剣川・石鐘山石窟

剣川・石鐘山石窟

次の目的地は大理北方200kmほどの剣川、その先100km行くと麗江だ。。
剣川行きのバスは昨日豪華船を降りた下関から出る、30分ほど南へ戻らなければならない。
いずれにしても大理古城は通り道、何とかなるだろうと幹道へ出る。
何台か目にやって来た剣川の看板を付けたミニバスに乗り込む。
昨日、喜州へ行った同じ旧道をひた走る。
道が少し湖側に傾いているのが当たり前のようにぶっ飛ばす。
4年前の事故を思い出し身震いするが、まあ、なんとかなるだろう。

やがて、右側に現れた真新しい新道と平行になり、道が一つになった。
と思ったのも束の間、100mもしてミニバスは左に折れ再び旧道を走り出した。
氷面のような新道を滑らかに剣川までの期待を裏切り、終に、剣川まで旧道を走り続ける。
まあ、幾つかの村落で客を乗せ下ろししながらの田舎のバスもそれなりの風情がある。
予定の3時間を2時間オーバーして剣川の町に入る。
名前のイメージから山峡の街を予想したが、結構な広がりのある盆地だ。

直ぐ食堂に入り宿探し、ここのビールも生暖かい。
食堂のお姉さんご紹介のホテル、交渉しても予算の100元以内を上回る。
急ぐ事はない、バイタクで着いた二軒目、バスタブもあり80元に満足。

小さなホテルだが、一応、写真付きの観光案内図が掲げてある。
剣川の狙いは、石鐘山石窟、
此処は、南詔国、大理国時代の白族の石窟としてその筋では知られている。
もう一つは、岩窟にへばり付くように建てられた宝相寺。
案内書にはバスの便が記されているが、受付の女性に尋ねると、
何回かバスを乗り継ぎ、時間もはっきりしない。

石鐘山石窟、宝相寺を廻って200元でタクシーを雇う事にする。
ふと、観光案内図を見ると、敦煌莫高窟の57窟?の菩薩像に似た写真がある。
「この写真の菩薩像の絵は何処に有るの?」
「??寺に有ります、石鐘山石窟、宝相寺の近くです」
「この??寺も廻ってくれる?」
「OK」
で話が付くと、受付けの人柄の良さそうな女性が裏口の方へ向い大声を挙げる。
裏庭の向うの方でマージャンをしていた一人の男が手を挙げた。
その男がまあまあの自家用車を裏口に乗り付けた。

盆地から川沿い、更に分山道を登り3,40分して石寶山の立派な山門に着く。



やっと着いたか、割合近いな、と思っているとそれからが大変、案内書には、
「...歩きながらの観光となる」
等と有るが、それを信じて歩いたらエライ事になる。
タクシーはくねくねした山道を登ったり降りたりして、やっと、
やや広まった駐車所の有る石鐘寺の入り口に着く。

少しややこしいが、この辺り一帯の山岳が石寶山と呼ばれ、
古来から白族の霊山信仰の対象になっており、幾つかの寺院が散在している。
その中の一つである石鐘寺が、
谷の向うの崖にへばりついている。



眼下遥かに剣川の盆地が広がる。



そこから、また、2,30分谷を下ると、蛇の鱗状をした奇怪な山肌の景観が現れる。



石寶寺の山門を潜ると大きなぼた餅状の小山、



  

その小山の一角をくり抜いた小さな穴に仏像が頓挫しているが、
その仏像の両脇に付き添う何人かが当時の生活を知る重要な像なのだそうだ、



従者の身に着けている衣装、手に持っている用具がそれを物語っているそうだ。
が、トント、判らない。
言い遅れたが、可愛い女学生のような女性が案内してくれている、しかし、
悲しいかな流暢な中国語だ。

階段を上がると女性は鍵を開ける。

  

客は滅多に来ないのだろう、しかも、たった一人の客だ。
岸壁の凹部に像が並んで居る。
一つ一つ説明をし終わると女性は、
「ここでは写真を撮ってはいけません」
と言って向うへ姿を消した。
「向うへ言ってるからその間に写真をとったら?」
と無言で言ってるのだと善意に解釈して写真を取り捲る。

 



 



 

敦煌、竜門、雲崗石窟に較べると極めて小規模では有るが、
一つ一つの像のキメが細かい。
南詔国王の像と伝えられる像にも素朴さを感じる。

白族の女神と崇められる女仏像の胸元の大きな穴は何だろう?



一番奥まった窟には女性崇拝物、女性性器が厳かに納まっている。



このような形での女性性器像は世界で只一つ、此処だけだそうだ。
背中に子犬を載せた狛犬も珍しい。



裏山に上る。

  

仏像に興味が有るくせに全く仏像の知識がない。
変わった仏像を見る度に、こんどこそ仏像の勉強をしようと思い立って、
もう何年になるのだろう。
ここ雲南ミャンマーに接している、
仏教国ビルマに近い事も何かの影響があるのだろう。

それにしても、この様な人里離れた山奥に.......
信じる事の一途さを感じずにはいられない