臨書の世界

古今寄りの名書を臨書する 

続昆明記20 石鼓 長江第一湾

石鼓 長江第一湾

バスは剣川から石鼓へ向っている。
石鼓は古来からチベットとの貿易拠点、
長江(揚子江)が西北から東北へV字型に急カーブして
長江では珍しい浅瀬になっているところが長江第一湾と呼ばれる。

古来からの揚子江を南北に渡江するのに最も適した所として知られている。、
過去に、孔明フビライ、の雲南攻め、朱徳の長征、
と中国史に残る大掛かりな渡江が三度有ったところだ。

バスの中で納得した。
何故、孔明フビライ雲南攻めにこの道筋を選んだかだ。
大理から石鼓までそれ程険しい山越えは無い、殆どが農地で繋がっている。
ほど良く村落も有る。
孔明フビライが容易に食料や人扶を調達できた事が覗える。

ズームアップするように長江が大きくなり、石鼓が正面に見えて来た。



遠くから見え隠れしていた街の入れ口でバスが止り何人かの乗客が乗り降りする。
次が街の中心かなと降りる準備をする。
が、街の中心が現れない。
あれよあれよと言う間にバスは街を遠ざかる。
さっきの停留所が石鼓だったのかな、と暫く躊躇していたが、
運ちゃんに声を掛ける。

急停車したバスから降りると、石鼓の街は向うの山陰、4、5キロは有るだろう。
真新しい舗装道路から情け容赦なく雲南の陽光が照り返す。
前を見ても、後を見ても車が来そうな気配も無い。

 

トボトボと歩き出すと道の傍らに農耕機、
農家に飛び込んで交渉する、値段を倍にしたら小父さんが立ち上がった。
僅か10分が、剣川から石鼓まで3時間のバス代と同じ額だ。
案内書の「石鼓は比較的大きな街....」を信じ過ぎた。

石鼓の由来となった太鼓型の石碑、明代の建立だ。

 

4本柱の立派な櫓の中にデンと辺りを払っている。
櫓の傍らに古道、



 

小道に辿って行くと吊橋に出る。

 

昔はこの吊橋が生活道路だったのだろう。

江の川岸に出る。
目前に見る長江第一湾は、
ポスターの写真などで見るV字型の豪快な景観とは程遠い。
余りにも近景なのV字型は想像するしか無いのだ。

 

向こう岸まで数百mは有るだろうか、ゆったり流れる長江、
ここから少し下流に、高低差が3000mの大峡谷、虎跳峡を控えているのが嘘の様だ。
虎跳峡でこの長江の川幅が一気に30mほどに縮まり激流と化す。

長江はその先、重慶、山峡、武漢を経て上海まで中国を横断し、
更に更に、2000kmも流れ続けるのだ。

つづく

  

  

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